昭和56年2月26日 朝の御理解
【入力者: 末永 満】
限りない御神徳を受けていくために一生が修行じゃと。そういう観念がいよいよ強うなっていく信心を頂きたい。この世は苦の世だ、苦の世界だと、まぁ、諦める的な修行ではいけません。どこまでも学者が歳をとっても、めがねをかけて本を読むようなものということはいよいよ学徳が身についてく。勉強しても勉強しても勉強には切がない、限りがない。これでよいということがないという意味だと思うんです。
もう一生はあの人のお家はもうほんとにまぁ、貧乏で一生終わられたとかね。ほんとにいろんな人間関係のわずわらしい問題でいつもあちら難儀してござるといったような難儀もそのまま修行です。けれどもそういう修行が続いておってはいけんでしょう。いわゆる、信心修行なんです。ね。だからその信心修行の根本的な、ならどこに焦点おいて、いうならばまぁ、今申しますように御神徳には限りがないのですから。その御神徳が身についていく。学者が学徳が身についていくことを楽しみに世の中言われんでも読まずにはおられない、勉強せずにおられないというものであるように信心させて頂く者も私は一生が修行というところね、そういう観点に立っての修行じゃなかなければいけない。どうせ人間には苦労はつきものじゃからと。ね。様々な難儀があります世の中にいっぱいありますけれども、そういういうならば苦労。一般で言う苦労からはいうならまぁ、解脱するというかね。ぬけださせてもろうて、(?)信心の力というか御徳が身についていくことのための修行でなからなきゃいけない。
昨日は25日の婦人会。それに幹部研修会でしたからいろんな話を頂きました中に今、伊万里支部ではあの沢山朝参りがあっておるんだそうですが。その朝参りの中にもうそれこそ朝参りをせずにおられないというような気持ちで朝参りを続けておられる婦人がおられます。まだつい最近の御信心ですけれども。非常に何ていうですかね。もう今まで信心の信心の‘し’の字も知らなかった私が信心というものがこういう有難い尊いもんだということを段々分かってきた。
(?)いろんな難儀の元というのがまぁ、めぐりの所為だと言われて大体めぐりとはどういうこと何だろう。まぁ、(?)けども漠然として分からない。次々とお夢でまぁ、御神夢と言わずにおられないようなお夢を頂かれる。その都度にここへ電話をかけてきて、それをお伺いを(?)。えー、私は昨日確かに私はそう答えさせて頂いたことを電話でこうしてお伺いをさせて頂いたら親先生からこういうことを言われましたという話を聞いて、改めて私は私自身がおかげを受けた一言でしたけれども。
電話でいろいろお伺いをさせて頂いた最後に親先生が『天地には親心があるからのう』と、言われたんです。天地には親心がある。もうその時もうそれこそまぁ、電気機を受けたような思いがした。もうほんとにこういうことを初めて聞いたんです。天地には親が心がある。私も人のこの親として子供の様々な問題を抱えておる。その天地の親神様にも親心がある。これはもう(?)そういうなことは。けどもその方のその発表を聞いておってですね、何か私自身が何かジーンと(?)受けた感じがしました。天地には親心があるからのうと言われた。だからその親心が分かり親心に沿うて行くという生き方。
昨日も朝電話がかかって参りました。今朝から頂いたお夢のことをこうこうというお届け。今日は研修ですから、研修があるそうですから又、今日も先生と一緒に又、合楽(?)おかげを頂きたいけれども、もうと言うて昨日そのお電話(?)頂いてそのことに対する御理解が、私はいやはり難しい。やはり素晴らしい御理解を頂く人だと。そんなに真剣に求めておられる方だということを知らんかったもんですからね。
ところが昨日私がお電話がかかってきた時に頂いたのがね。『大川の流れるように生きたい』というお知らせを頂いたんです。大川ち大きな川ですね。大川が流れるよう、大川の流れるような、に生きたい。ね。後小さい川でしたら(?)というですか。しゃ、しゃ、しゃとこう流れのように。大川の水というのはもう流れておるか流れていないかは分からないような感じですよね。そういうような生き方をしたい。そういうふうに生きたいとこういうのです。それに又、非常にあのそのことも昨日発表しておられましたがね。
私思うに金光様の御信心はね、なら今日の御理解の一生が修行と仰るのは、ほんとにそうおいう素晴らしいぎりぎりのまぁ、焦点をおいての信心の稽古。それこそ大川の流れるのように生きたい。どのようなことが、それはもうその表面はそうあっても中には(どくりゅうがうずまいて)流れておるかも分からんのです。けども表面はそれこそ流れておるか流れていないかは分からないような。ね。大川の流れのような生き方をしたい。生きたいというのは生きる死ぬの生きですよ。生きたい。
そういう願いの元に信心の稽古がされるならね、素晴らしい。そういういうならば信心を目指しての全てであり、修行であって初めて一生が修行じゃという値打ちがあると思うんですよね。ね。もう毎日毎日いうならば金銭のに終われておるとか家庭のが円満でないとかいつも人間関係で苦しんでおるとかといったようなそれをならまぁ、もうこの世は苦の世だから苦の世界だから、もうこのぐらいの難儀は当たり前といったような諦観的なね、苦労とか修行ではなくて、どこまで今(?)まずは天地には親心があるからのうというところを悟らせてもらい、その親心に沿うたいと、いうならば一念を燃やし。そのいきざまというものは大川の流れのように生きたいという願いの元に修行がされていく。そういう修行はね、一生が修行だというふうに頂かなければならんというふうに思います。
困った時、難儀な時に一生懸命参るとか拝むとかという信心。そういうそのそういう信心もやっぱり信心修行のうちでありましょう。ね。一生懸命神様へ向かうけれどもね、ここで言われる学者が歳をとってもめがねをかけて本をようなものであろうぞいという修行でなからなきゃいけない。信心をさせて頂いて神徳が身に付いていくことがもう楽しみでのいうならば修行でなからなきゃならない。ね。
そのいうならば、金銭のお繰り合わせお願いします、体の健康のおかげお願いしますという修行ではなくて、それこそ大川の流れのような生き方がしたいということのいうならば修行でなからなきゃならん。それにはまずね、天地には親心がある。ね。その一切を神様の親心としていうならここで言われる一切が神愛としてそれを受けていく修行なんですね。それもいうなら難儀を修行と思わねばならんといったような修行ではなくてです。もう十全足る信心修行に取り組ませて頂くというところから一生が修行であるといういうならば、値打ちある生き方ができる。それこそ大川の流れるように生きていけれる一つおかげを頂きたいですね。どうぞ。